学ぶということ
学ぶということ
週末、ひたすら投資:株の勉強に終始した。
途中、家族の美味しくないと噂の喫茶店”らんぷ”を探して散歩をして気分転換をした。
”学ぶ”でいつも思い出すのは、通信教育の大学の夏期スクーリングへ行った時の思い出だ。
英語の授業で、教室の一番前の席にいて熱心に勉強している70才台のおばあさんがいた。
通信教育のスクーリングでは一般の学校違って、教室の前から生徒がうまっていく。
授業が終わると多くの質問者が先生のところへ集まる。
時には、先生用のおしぼりを生徒が自主的に用意したりしていた。
生徒の年齢は18才から80才台まで幅広い。
何故、普通の授業風景と違うのかと言えば、基本自分の意志で自分が勉強したいから来ている生徒しかいないからだ。
さて、そのおばあちゃんの話をしよう。
おばあちゃんは戦争を経験していて、勉強したくてもできなかった。
ましてや敵性語の英語などもってのほかの時代である。
縁あって結婚した旦那さんは、仕事はちゃんとするけれどとにかく一年365日会社から帰るとずっと夜遅くまでパチンコをやっている人だったらしい。その夫もなくなり自由な時間ができたので、昔できなかった勉強をしようと大学へ入学してきたのだ。
多分、当時自分とおばあちゃんの年齢差は約50才。
おばあちゃんは「勉強できてうれしくて、楽しくてたまらない」とおっしゃていた。
通信教育の教科書は分厚く一色刷りで文字ばかりである。
端的にいってつまらない本である。
ただでさえ難しい内容なので殆どの学生は教科書を全部勉強しようとはしない。
いや出来ないのである。
生徒のほとんどが社会人で、仕事をもって働いているか専業主婦である。
レポートの課題範囲や、試験の範囲等を集中的に勉強するのが精いっぱいで、それ以外の範囲までとても手が回らない。
しかし、おばあちゃんは勉強できることじたいが楽しいので、教科書全部読まないなんてもったいないということで、全部勉強しているそうだ。
いよいよ先生がいらして授業が始まると、黒板にさらさらと筆記体で英語を書き始めた。
授業が終わって、おばあちゃんにお話をきくととても驚いていた。
何が?
英語の筆記体に。
何故…. ????
おばあちゃんは初めて英語を勉強するというので事前に一生懸命アルファベットを練習してきたらしい。
しかし、それは残念なことに筆記体ではなくブロック体だったのである。
黒板を見た瞬間、違う!
私が知っているアルファベットと違う!!!
何故、なぜ、なぜ???
となってしまったのである。
このおばあちゃんの凄いのはここからである。
18才の孫のような同級生に宿泊の寮に帰ってから、筆記体のアルファベットを教えてもらって勉強したのである。
この探求心、学習意欲には驚いた。
私の学生としての経歴は
工業高校卒後に就職。それと同時に地元の大学の工業短期大学部(夜間)に入学して三年間で卒業。
その後、25歳で通信教育の大学に入学して30歳で卒業。
その当時は経済学部、法学部、教育学部しかなかったので、一番卒業しやすいと言われていた法学部を選択した。
入学して分かったのだが、自分は法律の条文を読解や条文を暗記するのがとても苦手だったのである。
得意なひとは、あの呪文のような条文がすっと頭に入っていくらしい。
と、床屋から弁護士になった大学の先生がおっしゃっていた。
ホントなのだろうか? とても私には信じられないが。
そんなこんなで、特に通信教育の大学の在学中に”学ぶ”とは何なのだろうかとよく自問自答した。
一つの答えが、このおばあちゃんの姿である。
これが本来の”学ぶ”ということなのだと思う。
新しいことを学ぶ。
今まで出来なかったことが出来るようになる。
分からなかったことが分かるようになる。
人間は他の動物に比べて生まれてから大人になるまでとても長い時間が必要である
それは進化の過程で脳が肥大化して大脳皮質ができたことによる。
コンピュータに例えれば、
学習、経験によって個別のOSをインストールして、それをもとにここにアプリをインストールして日々アップデートできるのである。初期のOSが違うと後から大幅なアップデートは困難になる傾向にあるが不可能ではない。
今の時代、人間が生きているだけなら、そんなに高度な能力は要らない。
原始生活で全てを自給自足するような生活をしない限り。
どんどん生活は便利で安全で簡単になってきている。
そして、さらにさらに、些細なことも面倒だと感じて、なにかと脳は怠けようとする。
こうなってくると、このような高性能の(?)、曖昧性を多く残した生物に必要な知能はどんどん少なくなってきているはずだ。しかし、人間界はそんなにシンプルに発展してきていない。
効率だけ考えると、非効率きわまいない無駄で多様な文化を生み出して、妄想が妄想を生んで、もはや妄想と現実の境目さえはっきりしない混沌とした複雑な世界にどんどんなってきている。
科学の進歩で、昔魔術と思われていた不思議なこともその仕組みがどんどん明らかになてきた時期を過ぎようとしている。
例えば、スマホは世界中で使わているが、なぜそれで通話できるのは分かっているのはごくごく一部の専門家だけである。
殆どの人は日々スマホを使ってはいるが、その仕組みは理解していないのである。
これが、最近よく言わている、世界の再魔術化である。
人はただ生きる為だけに生きてはいない。
無限に何かを知ろうとする。
無限に興味がわいてくる。
生きている以上の意味を強烈に欲する。
人間はそんな不思議でやっかいで、
豊かで、面白くて、
とんでもない、愚かで、
非効率で、非合理で、愛のある
不可思議な生き物なのである。
コロナウイルスも相当不思議な生き物(?)だが
それにも増して人間は不可思議な生き物なのだと思う。
”学ぶ”ことは、ある人にとっては苦役であり、
このおばあちゃんのような人には、喜びであり、楽しみであり、豊かさである。
これからますます進む高齢化社会にあって、
この”学ぶ”ということが
とても とても 大切になってくるだろう。
“学ぶということ” に対して2件のコメントがあります。
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良い文章になりました。矢張り頭だけではなく実体験がもとになっているので、リアリティがあり説得力も生まれます。
時々漢字と誤字があるので気をつけましょう。原子生活→原始生活とか。。
コメントありがとうございます。
誤字脱字は、なるべく時間をかけずにチェックする方法を研究中です。自動校正ソフト、PCの読み上げ機能等…。