「押してもだめなら、引いてみな」
西野亮廣くんにINSPIREされて 2020.04.19早朝
仮に
「神的なもの」があったとする
しかし、
それは人間が考えだした
神
ではない
西野くんは
「神様と戦っているみたい」
と
表現した。
稀代の歴史家、トインビーは
「挑戦と応戦」と
表現した。
物理法則でいえば
「作用と反作用」
人類史上
幾多の
疫病が発生した。
長い戦いの末に
ほぼ制圧したかにみえた。
もしそれが、
「神的なもの」の
恵だとしたら
人類はその時、甚大な被害と
ひきかえに
大いなる学びをえることが
できたかもしれない。
しかし、
人類は愚かにも
その貴重な学びの機会を
自ら放棄してしまった。
そして、自らが「神」だと
勘違いしてしまった。
この悪魔的
災害と戦って、
今まで繰り返してきた
愚かな戦法で勝てると
勘違いしてきた。
夢見る、夢子ちゃんであった。
これが
「神的なもの」の
恵だとしたら
「神的なもの」の人類への
問いだとしたら
「神的なもの」の
愛だとしたら
その問いは
必ず解けるはずである。
すなわち
問いを変えるのではなく
自らを
変えるのである。
変わるのである。
「神的なもの」に
逆らっても
人類は勝てない。
人類は重力に逆らえない
とても
簡単な
原理である。
どれくらい人類は苦しめば
これを
学べるのだろうか。
押して開かないドアは
引けばよい
ドアは変わらない
でも
ずっと
自分が正しいと信じて
押しつづけていれば
ドアは
永遠に開かない。
「そんなドアは壊してしまえ」
だって?
それこそ重力に逆らう
愚行だ。
天に唾する愚行だ。
近年、日本は
毎年、甚大な天災に
繰り返しあっている。
でも、まだ学べていない
一生懸命に
ドアを押し続けている。
例えば、核兵器がある。
人類は「核」を自ら
発見したと思っている。
しかし、
これが「神的なもの」の
恵だとしたら
こんな人類の手の負えない
兵器を手に入れたら、
こりゃ、
人類が一致協力して共生する道を
選ぶしかないでしょ!
という自明の理に
気がつく
チャンスだった。
でも、
またもやドアを押してしまった。
戦いの道具にしてしまった。
平和利用という
悪魔のささやきに
たぶらかされて
原発をたくさん造ってしまった。
そして、
「神的なもの」は
日本に、二度までも
学びの機会を与えた。
すなわち
1945.8.6、1945.8.9の原爆投下である。
2011.3.11の東日本大震災である。
何故、日本に
二度までも
悪魔の核による
甚大な被害をもたらされたのか?
その問いに
その恵に
真摯に向き合わなくてはならない。
いまや
人類は科学万能
科学が神と錯覚している。
科学は、Howは解明できても
本質のWhyはわからない。
何故、核は、疫病は、
人類をこんなにも苦しめるのか?
Why?
そろそろ
「神的なもの」からの
問いに、
恵に、
気づいて、
ドアを引いて開けなければならない。
何故なら、
それに気づかなければ
「神的なもの」は
永遠に
その問いを
人類に
問い続けるから。
目覚めよ
この悪夢から!
「神的なもの」は
それを信じているが故に
まだ
人類をこの世に存続させて
いるのだから。
バカな子に、
信じつづけて
くりかえし
くりかえし
諦めずに
問い続けてくれているのだから
完了
西野亮廣くんにINSPIREされて
* 僕らは今、何を問われているのか?-西野亮廣 – YouTube https://www.youtube.com/watch?v=JjiJj128wHI
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“「押してもだめなら、引いてみな」” に対して2件のコメントがあります。
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深い問いですね。
ほんと、何故日本はこんなに原子力の被害に合うのでしょう?
そして、尚も原発を存続させようとしている。。。愚かとしか
言いようがない。
ありがとうございます。
何かしらの意味を見つけないとやりきれません。