自由と守破離
物事を学ぶ方法の究極は「守破離」だろう。
”自由”というと型がなくて、勝手気ままに自己流でやることの様に誤解されがちである。しかし、一流の人達を調べてみれば必ず何らかの型を持っているものである。型は言い方を変えれば基礎とも言える。しかし、この型はずっと一定で変わらないかというとそうではない。それを「守破離」でもう少し考えてみたい。
「守破離」は、茶人・千利休の歌「規矩作法 守りつくして破るとも離るるとても本を忘るな」をもとにしていると言われている。もう400年も前に考えられた重要な考え方だ。
守破離を簡単に説明すると、次のようになる。
「守」は、師についてその流儀を習い、その流儀を守って励むこと。
「破」は、師の流儀を極めた後に他流を研究すること。
「離」は、自己の研究を集大成し、独自の境地を開いて一流派を編みだすこと。
例えば、絵画にしても小学校の時の図画工作の時間の絵のように、「自由に描きなさい」と言われて、そのまま本当に自由に絵を描き続けていって良い絵が描けるようになるかといえば、そんなことはない。かならずどこかで行き詰まるはずだ。
「いやいや、私は先生についたり、絵の学校で学んだことがないから、自分だけで自由に上手くなりました」という人がいるかもしれない。しかし、生活していて全く他人の絵やそれに類するモノを見ずに生活することは不可能である。ということは、意識しなくても何かしらの絵は見ていることになる。先生はいなくても周りの情報から必ず学んでいるはずである。その場合、特定の師から学ぶのではなく、周りの環境が師ということになる。
いずれにしても、何らかの師に学んで、そして破り、そして離れるとうプロセスを通して自由な”自分流”を確立することができる。
“自由と守破離” に対して2件のコメントがあります。
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守破離については、よく分かるよう書かれているが、自由との関連性については説明不足している。簡潔に纏まっているが
守破離がなぜ自由に至るのか?どのように自由に至れるのか?
もう少し丁寧に説明するとより良くなると思う。
頂いたコメントへ返信してみました。届いているでしょうか?
確かに、自由と守破離の関係性が不十分ですね。
改良してみます。
ありがとうございました。